梅若家の歴史

丹波猿楽

猿楽とは、現在の能楽の元祖となるもので、丹波地方は猿楽の発祥の地とも言われ、平安時代の末期より鎌倉時代の初期に職業的猿楽師の団体があり、大きな神社・仏閣に属して猿楽座を称えていました。
丹波猿楽には、梅若のほか矢田・日吉・榎並など、猿楽座の名が記録に見えます。
近畿では、大和に丹満井(金春)・結崎(観)・外山(宝生)・板戸(金剛)があり、近江(滋賀県)・伊勢(三重県)にも諸座がありました。
丹波猿楽梅若の名が文献に出てきたのは、応永23年(1416年)3月9日の条に【仙洞に猿楽あり梅若仕る】と看聞御記に始めて出てきます。
主として院の御所での上演が主で、ほかに伏見の御香宮・醍醐の清滝宮などがあり、また名称も梅若猿楽・梅若太夫・梅若党・梅若部類などの呼び名で文書に書かれています。
仙洞御所での演能は応永年間(1425年)が最も多く、その後は地方も京都に乱れ、やがて応仁の乱となり猿楽も中止されました。
乱も治まった文明13年(1481年)正月20日、皆様にご存知の37世・梅若景久が、御土御門天皇より禁中で『蘆刈り』を舞って「若」の一字を賜り、以後『梅若』と改姓、並びに紫下白幕を下賜されたと記されています。

梅若家の先祖

梅若家の系譜は奈良朝の橘諸兄に始まります。
諸兄は、始め葛城王と称していましたが、母橘三千代の姓をつぎ、橘諸兄と呼ばれました。
その十世・友時が梅津氏の元祖で、従五位下梅津兵庫頭友時、この時より家紋橘を用いました。
山城の国梅津村住(現在の京都市右京区梅津)後に丹波の国大志麻(綾部市大志麻)に移りました。
法名『真光院殿浄雲徳行大居士』仁和4年(888年)5月3日卒となっています。
旧墓地の中央に、友時千年祭の供養碑が、明治11年・初代実によって建立されています。
現宗家、56世・六郎師は橘諸兄から計算して、56世・梅津姓を名乗った友時からでは、47世となります。その頃は、梅津の梅宮に仕えておられ、丹波綾部領大志麻では七万余石を領する豪族となり、地方に出たとは言え、系図によれば官位や役職が見えます。
丹波へ行った梅津の人々が、何時頃から猿楽を始めたか、定かではありませんが、前に述べましたように室町時代には、丹波猿楽の梅若の名が文献に出現しております。

初代梅若実・52世梅若六郎

初代梅若実・52世梅若六郎
文政11年 1828年4月13日日光山御門跡輪王寺北白川宮御用達の鯨井平左衛門長男として、神田銀町に生まれる。幼名は亀次郎。
天保7年(9歳) 望まれて51世梅若六郎氏晹の養子となる。
天保10年(12歳) 家督を相続する。
嘉永2年(22歳) 江戸城本丸詰めを命ぜられ、月20人扶持を受ける。
嘉永6年(26歳) 妻峰子を迎える。六郎と改名する。
安政4年(30歳) 長女津留子が生まれる。
慶応元年(38歳) 自宅に杉の板割2間4方・橋掛り1畳半の敷舞台を設ける。
毎月3回、10の日に月並稽古能を始める。観世銕之丞の弟源次郎(のちの観世清之)を養子に迎える。
慶応4年・明治元年(41歳) 朝臣を願い出る。暫く休んでいた稽古能を復活する。長男万三郎が生まれる。
明治2年(42歳) 稽古能に囃子を入れる。
明治3年(43歳) 稽古能に始めて装束をつけ「弱法師」を勤める。稽古能を毎月6日・21日に定める。これまで木綿の萌黄五風呂敷を揚幕に代用していたが見かねた見物連に贈られた絹五絽のものを使う。
明治4年(44歳) 青山下野守の舞台を譲り受け、厩橋に建てて舞台開きに「翁」を勤める。
明治5年(45歳) 晴天10日の日数能を催す。実と改名し源次郎に六郎をつがせる。
明治6年(46歳) 前年通り日数能を催す。始めて新聞に別会・追善能の広告を出す。
明治7年(47歳) 前年通り日数能を催す。金剛流と合併能を催す。
明治8年(48歳) 家祖忌追善能を催す。
明治9年(49歳) 岩倉具視邸における始めての行幸啓能に「土蜘」を勤め、この際宝生九郎を推挙する。3日間の日数能を催す。
明治10年(50歳) 前年通り日数能を催す。招魂社(現靖国神社)舞台の陸海軍省御用能を勤める。
明治11年(51歳) 前年通り日数能を催す。次男竹世(のちに二代実)が生れる。宮内省より御能御用達を命ぜられる。青山大宮御所舞台開き能を勤める。招魂社御用能を勤める。万三郎に分家筆頭の吉之丞家を相続させる。
明治12年(52歳) 前年通り日数能を催す。前田邸行幸啓能・靖国神社御祭能・アメリカ前大統領グラント馳走能・家祖350年祭能などを勤める。青山大宮御所能を勤め、この際桜間伴馬(のちの左陣)を推挙する。
明治13年(53歳) 東照宮謡初めを勤める。2日間の日数能を催す。
明治14年(54歳) 5日間の日数能を催す。芝能楽堂舞台開き能を勤める。次女花子(後に観世華雪の妻はま子)が生まれる。
明治15年(55歳) 前年通り日数能を催す。
明治16年(56歳) 始めての外人出弟としてアメリカ人モースとフェノローサが入門する。3日間の日数能を催す。
明治17年(57歳) 六郎に財産を譲る。一六の日(当時の休日)に早朝からの稽古を始める。
明治18年(58歳) 前年の通り日数能を催す。
明治19年(59歳) 前年の通り日数能を催す。亡父33年追善能を勤める。
明治20年(60歳) 先祖千年忌能に「鷺」を勤める。
明治21年(61歳) 還暦及び梅若家の家督相続50年を祝う。
明治22年(62歳) 憲法発布祝能を勤める。3日間の日数能を催す。
明治23年(63歳) 前年通り日数能を催す。日光東照宮大祭能を勤める。これまでの月2回の稽古能のうち、1回を観世家に譲る(のちに第3日曜日となる)。
明治24年(64歳) 六郎の懇望により竹世の順養子願済みとなり、その祝能を催す。
明治25年(65歳) 招魂社大祭能を勤める。葉山滞在中の英照皇太后に召され宝生九郎(先代)などとともに仕舞を勤める。
明治26年(66歳) 土方邸行幸啓能を勤める。靖国神社大祭能を勤める。
明治27年(67歳) 葉山御所敷舞台開きを勤める。関西へ行き西京能楽堂初日・西本願寺先祖見真大師祭能・大阪表能などを勤める。
ドイツ帝室唱師ミニ・ホーク招待能を勤める。
明治28年(68歳) 六郎実家に戻る。竹世に家督を相続させる。
明治29年(69歳) 先祖追善能を催す。伏見宮邸行幸啓能を勤め、明治天皇御製「成歓駅」節附を仰せつけられ、独吟する。
明治30年(70歳) 古稀祝能に「菊慈童」を勤める。
明治31年(71歳) 京都へ行き豊国神社300年祭能を勤め、その2日目に皇后陛下御歌「平壌」を独吟する。再度来日したフェノローサの稽古を復活する。
明治33年(73歳) 竹世に六郎をつがせる。祖先祭能を催し、第2日目に「関寺小町」を勤める。
明治34年(74歳) 一六稽古の250回祝を催す。
明治35年(75歳) 清国皇族載振馳走能を勤める。
明治38年(78歳) 旅順大勝利祝賀能に「木曽」「石橋」を勤める。観阿弥5百年祭能に「鷺」を勤める。
明治40年(80歳) 竹世の長男亀之(現 六郎)が生まれる。稽古能の750回記念能を催す。
明治41年(81歳) 金婚式を祝う。
明治42年(82歳) 1909年1月19日に病没し品川の海晏寺に葬る。辞世に「此翁いづくへ参らうれんげりや他へはゆかじ梅若の家」
「裸体にて此世へ出て得た宝我物あらじ皆置て行く」の和歌2首を残し、戒名は梅霊院若誉実心居士と名づけられる。

2代目実・54世梅若六郎

2代目実・54世梅若六郎

初代実の三男として明治11年4月28日に生まれ、53世六郎(姉婿)の準養子となり家督をつぐ。
初舞台は同15年天覧能で実父の「善知鳥」の子であった。
一六の稽古など厳しい薫育を受け、兄万三郎とともに名声富に高かったが、明治初期からの観世家との葛藤は大正10年、兄万三郎を宗主として銕之丞と共に梅若流を樹立するに及び、万六銕の黄金時代を築いて時の能楽界を風靡した。
昭和3年万三郎の還暦と舞台新築を機に家元を継承、以後不屈の闘志で流儀の維持と伸展に一生をかけた。
その間、兄万三郎が観世流に復帰し能界の孤児となったが、今は一般化した薪能、大衆能、劇場能、婦人能など先駆け、梅若謡本の完成、機関誌「梅若」の発刊、流儀の伸展は遠く満州大陸に及んだ。
同19年家督を長男亀之に譲る。
22年70歳で「道成寺」を舞い、23年二世実を称して隠居。30年芸術院会員となる。
同年東京観世会で「琴之段」を連吟したのが最後の舞台であった。
夫人ミツとの間に亀之、貞之、泰男の三男、六女がある。
晩年は孫善政(現梅若六郎玄祥)の教育に過ごし、34年8月16日永眠、享年82歳、虚空蔵院梅光覚仙実邦大居士、海晏寺葬。正五位勲四等旭日小綬章を贈らる。

55世梅若六郎

55世梅若六郎
明治40年 1907年8月3日、54世梅若六郎(二代梅若実)、ミツの長男として東京浅草(浅草区南元町29番地)に生れる。
三姉・二弟(現雅俊、恭行)、三妹あり。亀之(幼名)、のち景英、六之丞、六郎(戸籍改名)を襲名する。
明治42年 1月19日、52世梅若六郎(初代実)歿(81歳)。仕舞「老松」で初舞台(2歳)。
明治44年 1月22日、井伊邸舞台にて「忠信」の法師役で初装束(3歳)。
大正2年 1913年10月28日、伏見宮邸にて大正天皇・皇后両陛下御前能「望月」(シテ先代万三郎)で、子方を勤める(6歳)。
大正3年4月 浅草区立育英高等小学校入学。
大正4年 3月21日、初代梅若実七回忌追善能で「菊慈童」初シテ(7歳)。
大正7年、浅草精華尋常高等小学校転校。10月25日、祖母ミネ(初代実夫人)歿(78歳)。
大正8年 9月、厩橋能舞台落成。12月観梅問題(梅若の免状問題)持ち上る。
大正9年 4月、精美尋常高等小学校高等科一年入学。
大正10年 1921年4月3日、初代実13回忌追善能で「鷺」を披く(13歳)。7月観世流宗家より梅若一門破門通告を受け梅若流樹立。
大正11年 3月、浅草精美尋常高等小学校高等科二年卒業(14歳)。
大正12年 9月1日、厩橋舞台、震災で焼失。
大正13年 4月、「望月」を初演(16歳)。
大正14年 5月2日、初代梅若実17回忌追善能で「道成寺」を披く(17歳)。10月、厩橋新舞台落成。
昭和2年 大阪で「石橋ー大獅子」を初演。
昭和3年 2月5日、「翁」を初演(20歳)。
昭和4年 4月、区画整理のため移転した厩橋舞台新築落成披露。
昭和6年 5月、梅若流謡本発行。12月10日島田秀子と結婚(23歳)。
昭和7年 9月30日、長女曙子出生。
昭和8年 1月1日、先代万三郎観世流復帰。3月、機関誌「梅若」創刊。3月26日「安宅ー勧進帳」を披く(25歳)。
昭和9年 4月、上海で演能。同月亀之を景英に改名。5月14日、母ミツ歿(53歳) 6月2日、次女登司子出生。
昭和10年 1935年3月3日、初代実27回忌追善能で「卒都婆小町」を初演(27歳)。6月17日、三女恵美子出生。
昭和11年 10月、渡満演能。
昭和12年 4月7日、妻秀子歿(27歳)。11月14日、「摂待」を初演(30歳)。
昭和13年 8月、渡満演能。12月4日、「重荷」を初演。
昭和14年 5月4日、岡村すえ(現圭子)と結婚(31歳)。
昭和15年 5月5日、「鸚鵡小町」を初演。6月、満州演能。11月7日、四女喬子出生。
昭和18年 7月、満州演能。11月21日景英を六之丞に改名。同年戦時行政特例法により「梅若」誌休刊。
昭和19年 3月30日、父六郎隠居し六之丞家督相続して55世梅若六郎家を継承。
昭和20年 1945年3月10日、東京大空襲により厩橋舞台焼失。4月9日、情報局の命により統制団体能楽協会に観世流梅若派として入会。
傘下の三役は各役の所属下に入り観梅問題解決。8月20日長男雅之出生。
昭和21年 6月、京都で独演三番能を演ず。9月7日、長男雅之死亡(1歳)
昭和22年 2月、東京多摩川舞台で独演三番能を演ず。10月、観梅問題(協会手続きをめぐり)再燃し演能不能となる。
昭和23年 2月、GHQの勧告で三役出勤し演能を始める。2月16日、次男善政(現六郎)出生。
10月、多摩川舞台で六郎襲名披露能、55世梅若六郎となる。
昭和25年 5月5日、戸籍名六郎に改名。
昭和26年 4月29日、善政「鞍馬天狗」花見で初舞台(3歳)。
昭和27年 3月12日、三女恵美子歿(17歳)。8月、講和条約発効に伴いGHQ勧告の無効を通告され演能不能となる。
昭和29年 1954年47歳1月28日、六郎決断により観世流に復帰(46歳)。3月9日、観世復帰披露毎日能で「熊野」演能。
昭和30年 1955年48歳1月29日、梅若六郎後援会発会。
昭和31年 4月8日、梅若別会で「木賊」初演。10月28日、千番記念独演三番能を舞う。
11月23日、朝日五流能第1回に「八島ー弓流・素働」を舞う。以来52年第22回まで連続出勤。
昭和32年 3月、社団法人能楽協会理事就任。11月7日、「船弁慶ー重前後之替・白式」で第12回芸術祭文部大臣賞受章。
12月、能楽重要無形文化財総合指定に伴い技術保持者日本能楽協会会員になる。
昭和34年 8月16日、2代梅若実歿(82歳)。11月23日、山中秋の別会「大原御幸」で大阪市文化祭芸術賞を受賞。
昭和35年 11月8日、「山姥ー白頭」で大阪能楽観賞会大阪府芸術祭奨励賞受章。
昭和36年 各地に於て舞台生活50年記念独演五番能を催す。4月7日、伊勢神宮に「羽衣」を奉納。
8月5・6日、梅若能楽学院会館舞台披。10月2日、梅若能楽学院開校(54歳)
昭和37年 2月、長唄の吉住慈恭、地唄舞武原はんと「きさらぎ会」結成。10日第1回公演、以後2回公演。
昭和39年 7月10日、著書「謡を始める人のために」を池田書店より発行。
昭和40年 4月25日、梅若実7回忌追善能に「姨捨」を初演。
8月31日、ギリシャ・アテネフェスティバルに東京能楽団のメンバーとして渡欧。11月15日機関誌「梅若」を復刊。
昭和42年 1月15日、日本芸術院会員に就任(60歳)。
4月2日、就任祝賀能に「鷺」、9日、雪月花三番能を舞い、以後各地に於て公演。
昭和43年 6月、メキシコ国際芸術フェスティバルに能楽団の一員として参加。ニューオリンズ市名誉市民。
同月より各地で還暦祝賀能開催。11月10日、東京で「檜垣」を初演(61歳)。
昭和44年 9月14日、初代実60年祭記念能に独演三番能を京都で舞い、11月9日、東京で「三輪ー誓納」を初演。
昭和46年 11月14日、二代実13回忌追善能で「朝長ー懺法」を初演(65歳)。
昭和48年 3月4・11日、梅若会百年祭別会を開き以後各地で行う。
11月、ビクターレコードから「梅若六郎独謡名吟集」全15巻発売(66歳)。
昭和49年 9月25日、梅若六郎後援会を解消して梅若六郎鑑賞会発会。11月10日演能2千番曲祝賀能で「菊慈童ー遊舞之楽」を舞う。(67歳)
昭和50年 1975年2月より二代実17回忌追善能を各地で行う。6月30日、アカデミア賞受章。11月8日、「関寺小町」を初演して現行曲全曲勤める。
昭和51年 11月27日、紺綬褒章受章。
昭和52年 9月、古稀祝賀能を各地で行い10月30日、東京別会で舞囃子「姥捨」を舞う。これが最後の舞台となる。
11月3日、勲三等瑞宝章受章。
昭和53年 1月6日、東京女子医大付属病院に腎臓病で入院。6月14日、長女竹中曙子歿(45歳)。7月退院、以後入退院。
昭和54年 1979年2月18日7時24分腎不全にて歿(71歳)。梅馨院大道徹心居士。18日付正五位に叙せらる。