能は、鎌倉時代後期から室町時代初期に完成を見た、日本独自の舞台芸術の一種である。現在では日本における代表的な伝統芸能として遇され、国際的に高い知名度を誇る重要無形文化財。無形文化遺産保護条約に基づく「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載されており、2009年9月に予定される初の登録での世界無形遺産への登録が事実上確定している。
終戦後、国の復興が軌道に乗り始めた昭和24年、梅若六郎家は東中野の現在地へ転居された。戦災により厩橋の舞台が焼失し、新しい舞台の建設を何よりも嘱望されていた二代梅若実翁の強いご希望によってであった。
昭和34年1月、新年会席上で舞台建設計画の発表があり、これからという矢先に実翁は病に臥され8月14日逝去された。悲しみの乾く間もなく梅若六郎先生は父親の悲願を背負い舞台建設に立ち上られたが、能楽堂建設の段階に入ったとき現在地は住宅専用地域で歌舞音曲に類するものは禁止、従って舞台建設は不可能ということがわかった。大いに困惑された六郎先生は早速東京都知事を訪問、何とか舞台の建設はできないものかと相談され、学校の教習の場として舞台を作るのなら差支えないことが判明、急據、学校設置が急浮上したのであった。 昭和35年4月、梅若能楽学院会館設置許可申請書が中野区長宛に提出され、能舞台建設は学校設置と梅若会法人化に向け進められることになった。直ちに舞台建設委員会が梅若六郎後援会を母体として発足。同年8月学校設置許可が下り、設計は大江宏氏、施工は竹中組と決まった。昭和36年8月5・6日、梅若能楽学院会館竣工記念招待能が催され梅若六郎先生は「翁」を上演され、舞台の安全と永久不動お祈念、追って10月2日梅若能楽学院会館の開校式が行われた。そして翌37年4月2日、本科13名、自由科13名の入学式が挙行され、梅若能楽学院会館の歴史の一頁が開かれたのである。
*当核法人は、国と特に密接な関係がある法人ではありません。