さ行

「西行桜」 さいぎょうざくら

花に心をひかれてそちこち花の名所を尋ね廻る下京(しもぎょお)辺の人々(ワキヅレ)が、昨日は東山地主の桜を眺め、今日は西山に西行法師の庵室(あんじつ)を訪れる。
西行法師(ワキ)は庵室の前の老木の桜を愛して、花も一木、我も一人と静かに眺め暮しているから、このような外来者を好まない。しかし追い返すこともならずに柴垣の戸を開かせて内へ請(しょう)じ入れた。浮世を厭(いと)う山住の心を乱された西行は「花見にと群れつゝ人の来るのみぞあたら桜の科(とが)にはありける」と口ずさんだが、人々と共に花の木蔭にまどろんだ。
夜も更けたころ、桜の洞木(うつおぎ)から白髪の老人(シテ)が現われたので、西行が驚いて問うとさきに口ずさんだ和歌の意味を知りたくて来た、夢中の翁だという。そして「桜の科」とはどういうことかと問い返された。老木の、花も少なく枝も朽ちている自分は、人を招こうとは思わないというのだから、老木の精に違いない。
西行が一人静かに老木に対する如く、老木の精もただ西行に愛でられるのみで満足の様子であり、西行と老人との夢中の対話がこうして続く。花の都、その数々の名所を讃える老木の精は、後夜(ごや)の鐘の音のうちに老の足を引いて静かに舞を奏でる(序ノ舞)。
夜もほのぼのと白み渡ると、しかし名残惜しくても西行の夢はさめてゆく。

「 鷺 」 さぎ

夏の夕方、帝は群臣を引き連れて神泉苑に行幸し涼をとっていた。すると池辺に一羽の白鷺が降り立った。面白く思った帝は蔵人に命じて捕らえようとする。芦辺から狙い寄る蔵人に気づいた鷺は一度は飛び立ったが、勅諚であるという言葉をかけると不思議なことに再び降りてきて、羽を垂れてひれ伏した。それを抱き取った蔵人は叡覧に入れると、蔵人と鷺はともに五位の位を授けられた。これが五位鷺の謂れである。鷺は喜ばしげにあたりを舞いめぐっていたが、許されて空高く飛び去っていく。
鷺のシテは少年もしくは還暦を過ぎた演者にのみ演じることが許されている。清浄な白一色の出で立ちで舞う、鷺の姿態を模した「鷺乱」という特殊な舞が眼目である。

「実 方」 さねかた

陸奥を旅していた西行法師はある塚が歌道の先達・藤原実方中将のものだと里人から聞く。藤原実方は、平安時代、円融院(村上天皇第五皇子)や花山院(冷泉天皇の第一皇子)の寵を受け、歌詠みとして広く聞こえた宮廷花形の貴公子で、中古三十六歌仙の一人に数えられる。藤原道綱、道信や源宣方などとの親交や、清少納言など多くの女性たちとの交際が今に伝えられ、宮廷生活の交友歌や恋歌、贈答歌を数多く残している。そこでその実方を弔うため和歌を手向けていると、どこからともなく老人が現れ、西行に「新古今和歌集」が編成されたことを尋ねると共に古今集の六歌仙の歌物語を始める。そして老人は都の賀茂の臨時祭の舞いを舞うことを告げ、西行に「御覧ぜよ」といい西方に飛び去った。そこへ里の男が現れ、寝ていた西行を起こす。今までのことは夢だったのかと気付いた西行が更に眠りにつくと、その夜、西行法師の夢に実方の霊が現れ、冠に竹葉を挿し賀茂の祭りで舞を舞ったことや、君の寵愛を受けたことなどを語り御手洗の水に姿を映して我が姿に見とれ恍愡としてなおも舞をすすめる。しかし、よくよく見ると水に映るは老いた自分の姿であり驚愕し落胆する。やがて時ならぬ雷の音と共に実方の霊は消え失せ塚ばかりとなる。西行法師の夢の中で、老いた実方の霊が若き日を追憶し陶酔する姿を描いた作品。<クセ>は独立した謡物として、ききどころ。 世阿弥の『申楽談義』の中に出てくる『西行の能』だと推定されている。
世阿弥作と推定され、平成5年に観世栄夫が復曲初演した。
平成19年12月に梅若 玄祥が国立能楽堂 特別企画公演で再演した。

「猩 々」 しょうじょう

唐土かね金山の麓の楊子の里に、禹風という親孝行者(ワキ)があった。ある夜の夢に楊子の市に出て酒を売れば富貴となるだろうとの知らせをうけ、その通りにしたら次第に富貴の身となった。
市毎に来ては酒を飲む者があったが、いくら盃を重ねても少しも乱れない。尋ねると、海中に棲む猩々という者だそうだ。ある月の夜、今日も禹風は市に出て、猩々の来るのを待った。やがて猩々(シテ)は波間から真の姿を現して酒宴をはじめる。芦の間を渡る風はそのまま笛、打ちよせる浪の音は鼓のようである。宴はたけなわとなり、星は輝き、月光はこぼれる。その中でほろ酔いの猩々は、夜にも珍しい舞姿(常には中ノ舞・乱の場合は乱)をみせる。波の上をすべったり、波をけって水上に遊ぶのである。
こうして満足した猩々は禹風の孝行心を愛で、その素直な心を推賞して、汲んでも尽きることのない霊酒の泉の壷を与えて、夜も更け月の傾くころに酔い伏してしまう。しかし気づいてみるともう猩々の姿はなく、霊酒の壷はそのまま残されていた、という。
この能はもと二場物の曲であったが、現在では前場を省いて半能形式の祝言曲となっている。猩々とは酒の妖精で、頭髪から面装束までのすべてが微醺の象徴の紅ずくめである。