た行

復曲能「大般若」 だいはんにゃ

三蔵法師が大般若経を伝来しようと天竺へ向かう途中、西域の流砂河に差し掛かると、怪しい男が現れて語る。この河は千尋の難所であり、その向こう岸にそびえる葱嶺も険しく、まず超えることは困難であると。男はさらにこの河の主は深沙大王といい、姿かたちは恐ろしい怪物であるが、心では仏法を敬っていると物語り、実は三蔵は前世でも大般若経を得ようと志していたが、七度までこの地で命を落としてきたのだと語る。実は自分こそ深沙であり、志を試すために今までは命をとっていたが、今度こそ経を与えようと言って姿を消す。三蔵が待っていると菩薩が現れて舞楽を奏し、大竜、小竜が三蔵を拝する中に大般若経の笈を背負った深沙大王が現れる。笈を開いて三蔵とともに経文を読み上げ、この経の守護神になろうと約束すると笈を与える。三蔵は喜び笈を背負って流砂に向かうと河は二つに割れ、三蔵はやすやすと渡り深沙大王は見送る。

昭和58年復曲。深沙大王とはこの苦行の旅の中で三蔵自らが感得した仏法の守り神で、般若経と共に中国に伝わり、日本でも多くの寺院が深沙大王を守護神として祭った。その姿を竜神としたのは、当時の日本人が中国西域に横たわる砂漠の流砂を大河と解したためで、深沙が転じて真蛇と表記されることが多い。つまり能面の「真蛇」は大般若専用面であったという説が成り立つ。「般若」の面をさらに激しい表情に改作したのが「真蛇」なのではなくて、「真蛇」を参考に鬼女の顔立ちを創作したのが「般若」であると言える。それが「大般若」の演能が退転した五百数十年の間にわからなくなった。本日大般若の後シテに使われる梅若家蔵の真蛇の面も、古態を残した室町期の名品である。また深沙大王は三蔵法師の旅を小説化した「西遊記」においては沙悟浄となってあらわれる。沙悟浄(深沙大王)が首から提げている七つの髑髏は、三蔵の前世において七度命を奪った際のものであり、八度目に至って守護神となる証しである。また、深沙大王信仰が日本でも盛んだったことは、東京都調布市の深大寺という寺があることからもわかる。天平年間創建の関東でも有数の古刹である深大寺は、まさに深(沙)大(王)寺であり、秘仏深沙大王像を祭っている。

「大瓶猩々」 たいへいしょおじょお

唐土の金山の麓に高風(ワキ)という孝行な酒売りがいた。霊夢の告げに従い毎日市に出て酒を売っていたが徐々に富貴になった。店を出すといつも大勢の仲間を誘ってくる童子のような客(前シテ)があり、高風が名を聞くと潯陽の江に棲む猩々だという。高風の親孝行に感じて泉の壺を与えようと言い、市の人々にまぎれて去って行った。(中入)高風が潯陽の江で待っていると猩々(後シテ)が多くの友(ツレ)をつれて波間から現れ、大瓶の口を開け、汲んでも尽きることの無い泉の酒を飲み交わし、舞を舞い泰平の世を寿ぎながら帰ってゆく。

「当 麻」 たえま

ある念仏僧(ワキ)が紀州三熊野の帰途、大和の当麻寺に詣でた。そこへ若い女(ツレ)をつれた老尼(前シテ)が来かかる。僧の問いに応じて老尼は当麻の曼荼羅の蓮の糸をすすぎ清めたという染殿の井、その蓮の糸を染めて掛けた宝樹の桜の木について説いた。老尼は、なお極楽浄土を描いた曼荼羅を作った中将姫について語る。四十七代淳仁天皇の時、横佩の右大臣の息女中将姫がこの山に籠もり、毎日経を読誦して本当の弥陀如来を拝みたいと草庵で祈り続け、ある夜突然弥陀が老尼姿で現れ、姫は感涙で袖を濡らしたという話をした。今日は彼岸の中日、二月十五日で実は自分らがその時の中将姫に見えた化尼(阿弥陀如来)、化女(観世音菩薩)なのだと告げると、二人は昇天していった。(中入)僧は読経し奇瑞を待っていると妙音が聞こえ光明がさし、歌舞の菩薩が見えてきた。それは生前、日々経をとなえた中将姫の霊(後シテ)で、弥陀の浄土を賛美し、経の功徳を説き、舞を舞う。その上、仏を拝し仏法を聞く法事をしているうちに僧の夢は夜明けとともにさめてゆく。

「土 蜘」 つちぐも

病気で伏せる源頼光のもとへ、侍女胡蝶は処方してもらった薬を持ち帰り頼光の病床を慰めるが、病は益々重くなっている様子だ。その夜、深更になってから怪僧が枕辺に現われ、頼光に病状を尋ねた。その名を問うと古今和歌集の歌を吟じて、忽ち二メートル以上もある蜘の形となり、千筋の糸を繰り出して頼光に投げかけた。頼光は枕もとの愛刀、膝丸を抜いて斬りつけたが、怪物の姿は消えてしまった。
頼光の叫び声を聞いて馳せ参じた独武者が座敷を見ると、血痕が点々としている。その血をたどっていくと古塚の前に来た。この塚を崩すと、岩の間から大きな土蜘の精魂が名乗って出た。蜘は糸を繰りため、それを投げかけてくる。士達は大勢で怪物におどりかかり、劒をふるって斬り伏せ、ついにその首を落とした。

「天鼓」 てんこ

支那後漢の代に、王伯王母という夫婦があった。王母は天から鼓が降り下った夢を見て懐妊したので、生れた子を天鼓と名づけた。その後本当に天から鼓が降り、それは世にも美しい音色だった。時の帝がそれを所望したので天鼓は鼓をだいて山中に逃げたが、逮捕されて呂水の江に沈められた。しかし内裏に据えられた鼓は一向に鳴らないので、今度は父親王伯(シテ)に打たせようと勅使(ワキ)が迎えに来た。
恐怖心を持つ父親は御殿の立派さに目もくらみ足がすくむ。漸く宮殿に入って鼓を打つと、鼓ははじめて妙音を発した。父子の情が通じたものであろう。感銘された帝は管弦講で天鼓の霊を弔うこととした。数々の宝を与えられた老人は帰宅する。(中入り)
天鼓を沈めた呂水の堤には例の鼓を据え置き、帝も行幸されて管弦講がはじまる。時は初秋で、澄み渡る空には月が輝き、水は満ちて波はうねうねと寄せる。すると夜更けに天鼓の亡霊(後シテ)の姿が現れた。亡霊は鼓を打つことを命ぜられると喜んでたわむれ遊ぶ。その昔は波のとどろきに混じって、まるで天上界の音楽のように美しい(楽)。
晴れた空には七夕の星が輝き、五更をすぎ、鶏の鳴く明け六つ(午前六時)を過ぎると、しかし亡霊の姿は夢のように消え去る。

「道成寺」 どうじょうじ

紀州道成寺では、長らく失われていた釣り鐘を再興し、その供養が行われる。住僧(ワキ)はさる事情から、供養の庭を女人禁制にした。そのことをふれ回った下働きの能力(アイ)の前に一人の美しい白拍子(シテ)が現れ、精一杯の舞を見せるというので能力はひそかに供養の拝観を許した。白拍子は舞を舞ううち鐘に近づくと人々が恍惚とするなか、鐘を引き下ろしてその中に姿を消した。
こういうことにならないように女人を禁制にしたのだ。住僧の話によれば、昔この辺りに、娘をもつ真子の荘司という者があった。娘は父の冗談を真に受けて、荘司の家を宿坊として熊野に年詣でをしていた山伏を自分の夫と思い定めた。それを知った山伏は驚いてこの寺に逃げてきたので寺の人々は鐘の中に隠したが、娘はあとを追い、執念のあまり大蛇に変身して日高川を泳ぎ越えてこの寺までくると、鐘にまとわりついて山伏を取り殺したのだそうだ。
先の白拍子はその娘の怨霊であろうと、住僧たちが鐘に向かって祈ると鐘は黒煙をあげてふたたび上がり、蛇体となった娘の怨霊が現れた。僧に挑み掛かり鐘に執念を見せる怨霊も、次第に住僧たちの祈祷の力に負けてついに日高川に飛び入って姿を消す。
白拍子が見せる気迫のこもった乱拍子から急之舞、そしてスリリングな鐘入り、蛇体となった後シテと僧侶の闘争など息をつかせない展開を見せる。

「道明寺」 どうみょうじ

信濃の善光寺に七日間籠(こも)った相模の田代の僧尊性(そんじょう)(ワキ)は、霊夢の告げをうけたので菅公(かんこう)の遺跡である河内の土師寺(はじでら)(道明寺)へ出かけた。
 如来の化身らしい気高い老僧が御厨子(みずし)の戸を開いて現われ給い、念仏往生の僧の志をたたえ、土師寺へ参れ、といわれた霊夢なのである。土師寺は天神のおいでになる所で、昔天神が一切の衆生が現世を安穏に暮らし、来世で極楽往生できるようにとの思し召しから、五部の大乗経(だいじょうきょう)を書いて供養し、ここに埋められた。その経の軸から木槵樹(もくげんじゅ)が生えたが、その実を珠数として百万遍念仏すれば往生は間違いない、というのである。  道明寺には宮人(みやびと)(ツレ)と老宮人(シテ)がいたが、ご夢想(むそう)のことを話すと、老宮人は僧を木槵樹の前に案内した。神仏はご一体である。僧は共にこの樹を拝して経を称(とな)える。宮人は菅公のことを語ってから、我は天神の御使白太夫(しらたいう)の神(しん)と名乗って姿を消した。(中入)。
 その夜の夢に天女(後ツレ)が天降り、天の岩戸の神遊を思い起して拍子の役である白太夫の神を招く。白太夫の神(後シテ)は厳かな姿で現われ、笏拍子(さくびょうし)をとって面白い楽を奏する(楽)。千秋楽・万歳楽(まんざいらく)など、様々の舞楽の末に、白太夫の神は木槵樹の梢にかけってその枝々から木の実を振り落して尊性に与えるようにみえて、僧の夢はさめた。

「 融 舞返」 とおる

~梅若玄祥による「融 舞返」演能の当日解説文より抜粋~
このたびの融は「舞返」という小書きになります。
先ず最初に「舞返」の話をさせて頂きます。
前半は型どころはそう変わる所がないのですが、謡が少々抜けて、初めの一声だけの謡となります。そのあとワキの僧との会話にすぐ移ります。そこが抜けるぐらいで小書きによって大きく変わるところはございません。装束も変わりません。
後半になりますと装束が変わることがあります。しかしそれも時に応じて様々なパターンがあります。この度は、どういう風になりましょうか?指貫、狩衣、または直衣をはいて真の太刀、被り物が、普通は初冠なんですが小立烏帽子になる場合もあります。それは演者の好みによって決まります。
大体私は白式、中の着付だけは赤にして、白の一色のものでやる場合が多いです。
そして後半が変わる所があります。
「舞返」ですから舞をもう一度繰り返します。
これはいろんな意味がありまして、舞を舞って面白いから、もう一度それを興に乗って舞う、それを「舞返」という言い方と、融の大臣の生前の華麗なる栄華を象徴するかのような場面を至極作りたいがために、後半のすばらしく華やかな舞をそこに足した、ということも考えられます。これもそのときの演出意図によって様々変わると思います。
この度は私としては後者になると思っております。
ではどのように変わるかと申しますと、
本来は流儀で演じられているものといいますと、「舞返」で言うと前半が盤渉の五段窕、返すほうが急之舞、という舞い方になります。私もそれで度々演じてますが、この度は梅若の家に古くから残っております、前半を黄渉五段、後半を盤渉の窕で窕留めという舞い方になります。ですから急の舞がありません。
普通の十三段の場合の、後半の急之舞がなく窕で留める、と思っていただければいいと思います。ですから非常に急テンポな舞がないのですが、逆に早くないほうが融の華やかさにも通じております。窕で留める非常に乗りのいい早舞で留まるわけです。それが今の梅若に残っている早舞と思っていただけると良いと思います。
最後は脇留といって謡の中でシテが幕に退場します。演出的には大体今のような形になります。
では私の融に対する思いを述べさせていただきます。
おかげさまで私はこの融という曲をずいぶん何回もさせていただいて三十回以上はさせていただいていると思います。これは先代の父親が非常に得意としておりまして、天鼓とこの融は数限りなく舞っていたようです。 ということは舞事が非常に得手であったということですね。
ご承知のようにこの後半の早舞の舞どころは舞っていても非常に気持ちのいいところでもありますし、また観て頂くのも非常に美しい華やかな華麗な舞でして、面白さも格別だと思います。しかし注意しなくてはいけませんのは、これは前半が非常に難しく、前半があってこの後半があるのです。前半のこの荒廃した荒れ果てた六条河原院の様子が前半で語られるわけですけれど、そこに後半の融の大臣の霊が登場して往時のこの様子というものが再現されるような場面に変わっていかなければならないのです。その変わり方ですね。後シテが登場した時にあたかも荒れ果てた住まい、六条河原の院の邸宅が昔のように光り輝いているという様子が出てこなければならないのです。それには前半のシテの語りから汐汲みにかけるあたりの前半の所作というか、非常に難しいです。逆に申しますと前半の汐汲みの老人ではあるけれどもその位の高い人が見え隠れするような老人でなくてはいけないのです。
そこが演者としては苦労するところではあるわけです、そこが成功すれば後半はそのままいける、という能であると私は思っています。
ご覧頂く方にもわかりやすく且つ面白い非常に能らしい作品でありますから是非楽しんで御鑑賞いただければと思っています。

「知  章」 ともあきら

春浅い須磨の浦である。西国の僧(ワキ)が都へ上る途中、ここに立寄って「物故平知章(もっこたいらのともあきら)」と書かれた卆都婆(そとば)をみて、あわれを催して回向した。するとそこへ浦の若者(シテ)が現れて教えた。武蔵守知  章は親中納言平知盛(清盛の三男)の子で、二月七日、一の谷の合戦で討死した。今日はその命日なので、ゆかりの人が卆都婆を立てたのだ。その戦で父知盛が井上黒(いのうえぐろ)という名馬を泳がせて、二十余町も海を渡って安徳天皇の御座船に追いつき奉った様子を語ってから、回向を頼みつつ、夕暮れに名乗りそうにしながら名乗らない若者は、沖の方へと浮き沈みして見えなくなった。(中入り)
 僧が夜を徹して読経していると、当時十六歳で戦死した知  章の亡霊(後シテ)が波に浮かんで現れた。散りぢりになっての敗走の折、主上の御座船を慕って父知盛と、自分と監物太郎(けんもつたろう)の三騎はこの汀に着いた。しかし大勢の敵が寄せて来たので引返し、自分ら二人はここで討死したが、その間に父知盛は御座船へと馬を泳がせた。知盛は船中の内大臣宗盛に向って涙を流しながらその有様を報告した。同船の宗盛の子清宗は知章と同年であった。
 知章の亡霊は当時の様子を仕方話にする。監物太郎は敵の一人を矢で射抜いたが討たれ、知章も親を討たせまいと、知盛をねらう敵と奮闘したが、首を打ち落とされたのだ。