は行

「花 筐」 はながたみ

越前味真野の里に居られた男大迹皇子は武烈天皇のあとを継いで即位されることとなり、都へ上られる際に、かねてご寵愛の照日ノ前に使者(ワキヅレ)をつかわして文(手紙)に添えて形見の花筐を与え給うた。照日(シテ)は文を拝して読み、ご即位を喜びながら深く名残を惜しんだ(中入)
即位して継体天皇となられた皇子は官人を引き具し、ある日紅葉の宴に行幸なされた。
 一方皇子に別れて心乱れた照日(後シテ)は、帝の居られる都(大和の玉穂)を慕って侍女(ツレ)を連れ、郷里をあとにした。
御幸の先頭を承る官人(ワキ)は見苦しい狂女が来るので手荒く扱ったが、よろけて手籠を取り落した侍女は「天子のお形見を打ち落とされました」と声をあげた。それは天罰の当る行為で、官人こそ狂気の沙汰というべきだ。狂女達は地団駄を踏んで官人を叱った。
お輿の中の帝(子方)は狂女をおみとめになると、お召しになり、狂女に面白く狂わせた。狂いの中の歌は漢の武帝が李夫人を追慕する、綿々の情を訴えたものであった。
そのうちに帝は思い出の花籠にお目をとめられ、こうして偶然の出会いから、再び照日は還幸のお供に加えられることとなったのである。

「班 女」 はんじょ

 美濃の野上の宿(しゅく)の遊女花子(はなご)(シテ)は、この春、東国に下向する途中に立寄った吉田少将と契り、以来取り交わした形見の扇に見入るばかりで、他の座敷へ出ようともしない。それで班女(秋には扇のように捨てられた、漢の成帝の寵姫(ちょうき)班(はん)婕舒(しょうよ))と仇名されている。宿の長(アイ)は我慢がならずにこれを追い出してしまった(中入)。
 その年の秋である。少将は都へ帰る際に野上に寄ったけれども、花子は行方不明なので、やむなくそのまま立戻った。そしてある日、糺(ただす)の森の下賀茂神社に参詣した。
 「春日野の雪間を分けて生ひ出でくる草のはつかに見えし君かも。」僅かの出会いであった少将からは何の便りもなく、恋しさに心乱れた花子(後シテ)は、神社に合掌しつつ都へと上る。「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」(カケリ)。恋慕の情が深まれば、恨みにも愚痴にもなる。男女間の昔話をいろいろと思い出しながら、狂女はさすらい、ただ少将の出現を待ちわびるばかりである。そして扇を出しては懐かしむ(中之舞)。「形見こそ今はあだなれこれなくは忘るる隙(ひま)もあらましものを。」そして狂女も今、社前に来た。
 少将は狂女を見とがめ、もしやと思って「扇を見せよ」といわせたが、かき抱いて見せない。それで自分の方のを見せた。それは正しく半年前に取り交わした花子の扇であった。

「百 萬」 ひゃくまん

吉野の男が幼子を連れて嵯峨の大念仏に詣でた。この子は以前奈良西大寺近くで拾ったのだ。清涼寺には面白い女物狂いの百萬がいて、念仏を唱え踊りながら、身上を嘆き生き別れた我が子との再会を仏前に舞を奉げて祈る。女は黒髪を乱し、着崩れたひどい姿で狂乱し、群集の中に我が子の姿を捜し求めるのであった。
突然幼な子は「あれはお母さんだ」と叫んだ。男は狂女に身の上を問いただし、幼子に引き逢わせる。里人が連れていた子が我が子だとわかると、仏力に感謝し奈良の都へと帰って行く。

「富士太鼓」ふじだいこ

 萩原院(花園天皇)の時、内裏に七日間の管絃が催されたが、天王寺の浅間、住吉の富士は、ともに太鼓の上手な楽人で互いにその役を望んで上った。このことから、浅間は富士を殺害してしまった。富士の妻(シテ)は不吉な夢を見るので一女(子方)をつれて夫を尋ねて上った。すると官人(ワキ)から事の次第を知らされ、形見の装束を渡された。形見まで渡されては疑うことも出来ずに、妻は嘆きに沈む。
 悲しみのあまり亡夫の形見を身につけた妻は、大太鼓を、あれこそ夫の敵だとばかりに乱打する。驚いてとめる娘にも、あれが父の敵と教えるので、娘もこれを打つ。夫の霊が憑いたものか、物狂おしい妻は娘を押しのけて太鼓を打つ。  手に持つ撥を剣と見みたてれば大太鼓の火焔はそのまま激しい怒りの焔のようだ。乱打する女は官人にすすめられると唐楽の五常楽をうち、続いて大君の御命の長久を願って千秋楽を、また民が栄え天下が安穏になるように太平楽をも打つ。そして漸く傾きかかる日を招き返す羅陵王をも打つ。こうして存分に太鼓を打つと恨み心は晴れる。もうお暇を致しましょうと、鳥兜も舞装束も脱ぎ捨てて、妻は帰途につく。
 そして振り返ると、しかし思えばこの太鼓こそは亡夫の懐かしい形見なのである。

「二人静」ふたりしずか

吉野の勝手明神では毎年正月七日に菜摘川の若菜を摘んで神前に供える。今日も菜摘の女が出かけた。松の葉にはまだ雪が残っている。そうした小途で女(ツレ)が菜を摘んでいると、突然誰かに呼びとめられた。
 それは不気味な女(シテ)で「、明神へ帰って神職に伝えてくれ、罪深い自分のために一日経(頓写)を書いて回向してほしいのだ」といい、「もし人々が不審に思うようならばその時自分がお前に憑いて名乗るから」といったかと思うとその姿は消えた(中入)。
 驚いた菜摘女はすぐ戻って神職(ワキ)に告げた。そして「まるで信じられないことですが」といいかけると、その様子は一変して憑きものがした。「あれ程依頼したのに何故信じないか」と自分自身を叱る、その声はまるで別人のような威嚇がある。
 狂気した菜摘に神職は問うと、憑きものは「この地で義経に捨てられた者(静御前)」であった。しかもこの社の宝蔵に、往年の静の舞衣装があるというので開いてみると、それがあった。女はそれを身につけ(物着)て、思い出の歌を謡いながら美しい舞を舞う。
 するといつかその後方にも、まったく同装の女(後シテ)がもう一人いて、全く同じように舞っている(相舞の序ノ舞)。それは殆ど一人の舞が、二人に見えているようである。

「船弁慶」 ふなべんけい

文冶の初め、源義経は兄頼朝の疑いを晴らすため、ひとまず都に落ちて西国へと下り、武蔵坊弁慶以下を引き連れて今、摂津の尼ガ崎、大物浦に着いた。宿を求めて落ち着いたが、一行の中に静御前も供をしているのは好ましくない。弁慶は義経にそのことを言上し、自ら使者となって静の宿を訪れた。義経から直接聞かなければ納得しなかった静も悲しい別離の酒宴に主君の不運を嘆き、古詩を歌いつつ涙ながらの舞を舞う。(中入り)
船の用意が出来たが浪風は荒い。しかし義経がもう一日逗留しようとするのは、静との別れを惜しむためらしい。弁慶は押し切って船を出させた。大勢の勢子達が船頭に力を合わせて漕ぐ。すると俄かに天候が変って武庫山颪が吹き降ろすと見る間に、波の上には西国で滅んだはずの平家一門の怨霊が浮かんで見えた。
中にも敵将平知盛の霊は、長刀をひっさげて義経に斬りかかる。義経は応戦するが相手は亡霊だから戦っても仕方がない。弁慶は割って入り数珠をもんで祈った。祈られて威力の弱まった悪霊は次第に遠のき、しばしは遠く、近くの波に揺られて見えていたがそのうちに海に没して姿を消した。