ま行

「巻 絹」まきぎぬ

今上皇帝のご霊夢により、諸国から千疋(びき)(一疋は二反、即ち並幅で約20メートル)の絹を集めて熊野三社に奉納することとなったが、都の分が届かない。都からの使者(ツレ)は献上の巻絹をもって遙々熊野のお山に着いたが、まず音無の天神に参詣し、祈願をこめ心中に和歌を手向けたりしていて、遅参したのである。
 ただ一人遅れた男を、勅使(ワキ)は従者(アイ)に縛り上げさせた。すると、そこへきた巫女(シテ)が「その縄を解け」という。この男は昨日音無天神に歌を手向け、自分はそれに感応して受け入れたのだというところをみると、巫女には天神が憑いているらしい。こんな下賤な男が歌を詠むとは信じがたいが、巫女はその証拠に彼に上句をいわせようという。
 男は神前の冬梅をみて詠んだ歌の上句を吟ずる。「音無にかつ咲きそむる梅の花」。すると巫女が「匂わざりせば誰か知るべき」とあとをつけた。心中に詠んだものでも、通力をもつ神は知っているのだ。神は人の敬いによって威を増すものであり、和歌は日本の陀羅尼で、文字数は少ないが有難い章句なのだ。巫女は勅使のすすめに従って祝詞(のりと)を捧げ、神楽を奏して舞い狂う(立廻)。
ここ熊野の全山は仏法守護の神々に満ち、阿弥陀如来はあやまちをもお許しになる。そう狂い説くと、神霊は離れて巫女は正気にもどる。

「三輪 誓納」 みわ

~大阪梅若能(平成20年12月6日(土)大槻能楽堂)にて「三輪  誓納」演能。当日出された解説文より抜粋~
小書「誓納」は他流では「三光」「神道」「神遊」などの小書名で演じられ、神道がむすびついて非常にストイックな形で上演されています。神道が能の中にどの様な形で入り、現在のように演じられるようになったかは解明されていませんが、一子相伝のタブーの中にあって芸として語られていないのは寂しいことです。父は「誓納」を演じていますが、本当の意味を知っていたのか不明です。今回初演するにあたりいろいろ研究していますが、何かの機会に申し上げることが出来ればと思っています。

「通 盛」 みちもり

阿波の鳴門で夏季九十日間の籠居修行をしている僧があった。毎夜磯辺に出て読経していたが、ある夜に、舟を漕いでくる者があった。舟には漁翁(シテ)と女(ツレ)がいて、読経するのを聴聞していたが、僧がこの浦で討死した平家一門のことを尋ねると、二人はこもごも語った。
 ここで討死した人々は多いが、中でも小宰相局は、夫通盛の戦死を知ってその後を追って入水したのだ。そう語った二人はそのまま海に沈むように消えていった。(中入)
 僧達がなお読誦していると、さきの女と、武装の男(後シテ)とが波に浮かんで見えた。女は小宰相(こざいしょう)の亡霊で、男は平通盛であった。
 戦はたけなわである。その時通盛は、よき敵近江の住人木村源五郎重章(しげあきら)が馬をかけつけてくるのに出会った。そして奮戦ののち刺違えたのだが、両人ともに修羅道に落ちたのだ。そういって回向を頼む亡霊は、しかし法力によって成仏していくようであった。