や行

「八 島」 やしま

都より西国行脚に出た旅僧(ワキ)は四国讃岐の屋島に立ち寄り漁師の家に一夜の宿を頼みます。宿の主人の漁翁(シテ)は僧が都人と聞き懐かしげに招き入れ、僧に求められて源平屋島の合戦の昔話を物語ります。漁翁の話は源義経の勇姿を語り、悪七兵衛景清の力比べを語り、義経を守り敵の矢を受けて死んだ佐藤継信の話しなど詳細に語ります。漁翁の昔を物語るその姿はまるで義経であるかのようで、やがて昔話を語り終えた漁翁は僧の前から姿を消してしまいます。(中入) 僧は屋島の浦人(アイ)から源平合戦での那須の与市の扇的射の話を聞かされ、先刻の漁翁が義経の霊であろうと聞かされます。僧が枕に付くと夢の中に甲冑姿の義経が現れ、源平合戦の折に自分の弓を取り落とし弓の寸法から自分が小兵であることを敵に悟らせない為に危険を冒してまでも取り返した話を聞かされます。僧は義経の霊が修羅道に落ちた今もなお、戦い続けている有様を見て闘争の叫びを耳にします。やがて夢から醒めた僧の耳には静かな風の音が響きます。

「山 姥」 やまんば

山姥の山めぐりの曲舞を舞うことで有名な遊女(ツレ)は百万山姥と巷で呼ばれています。その遊女が都ノ者と従者(ワキ・ワキヅレ)を連れて善光寺へ向かいます。するとその途中、越後の険しい山道にさしかかると突然あたりが暗くなり、そこに現れた里の女(前シテ)に案内され一行は山女の庵を訪れます。山女は一行に自分が本当の山姥だと正体を明かし、遊女に曲舞の謡を聞かせてほしいと頼みます。それを聞いた遊女は驚き曲舞を謡おうとすると、山女は月夜に自分の真の姿を見せると言い残して姿を消します。その夜、一行の目の前に恐ろしい鬼女(後シテ)が現れて、遊女の謡に合わせて本当の曲舞を舞い、四季折々に雪や花・月を訪ねる山めぐりの有様を舞い示し大自然の雄大な姿を現します。

新作能 「夢浮橋」 ゆめのうきはし

 宇治川に女が一人、花を投げ入れ念仏を唱えています。通りかかった阿闍梨が訳を尋ねると、かつて仕えていた姫君がここで入水したが、遺体が見つからなかったため、この川を墓と思い、供養しているのだと答えます。阿闍梨はすぐに浮舟の事だと気づきます。偶然にも、入水した浮舟を救ったのは、阿闍梨の師である恵心僧都(横川の僧都)でした。その恵心が亡くなったという知らせを受け、阿闍梨は師の墓へ急ぐところだったのです。阿闍梨と女は連れ立ち、比叡山の奥にある横川の墓所へと向かいます。
 阿闍梨は墓所に着くとすぐさま、師に許しを乞います。阿闍梨は若かりし頃、浮舟の魅力的な肉体と黒髪に接し煩悩に取りつかれ、師の恩に背き寺を出、以来放浪の旅を続けていたのです。
 すると、宇治川の川面、月明かりのもとに、夢か幻か、浮舟と貴公子匂宮が舟に乗って立ち現れます。その幻影とともに、阿闍梨の記憶は遥か過去へと遡ります。
 浮舟と匂宮は、隠れ家で道ならぬ恋に身を燃やします。しかし浮舟には、もう一人、薫という忘れられない想い人がおり、身を二つに引き裂かれる苦しみの只中にいたのでした。浮舟は宇治川に身を投げますが、恵心僧都に救われ一命を取り止めます。もはや死ぬ事を許されぬ浮舟は出家を決意します。
 師の指示により、若き阿闍梨が浮舟の剃髪をすることになります。生き物のようにうごめき波打つ黒髪は艶めかしく、阿闍梨に淫欲の衝動を湧き起こします。阿闍梨は無意識のうちにその黒髪を一房、懐に隠し持ちます。その後阿闍梨は破戒僧と成り果て、生きながらにして、地獄に堕ちた苦しみを味わい続けます。
 しかしこうして今、懸命に念仏を唱え、黒髪の一房を師の墓に納めることで、阿闍梨は煩悩から解放され、ついに悟りを得たのでした。

「熊 野」 ゆや

平宗盛(たいらのむねもり)に伴われて都にある、遠江(とおとうみ)の池田の宿(しゅく)の長(ちょう)(女主人)熊野(シテ)は、老母の看病のために暇乞いをしているが許されない。母からは再々の催促で、今日は朝顔(ツレ)が文を持ってきた。やはり容態はよくない様子である。涙ながらにしたためられたその手紙を宗盛にも示したが、大切な花見の相手だから宗盛は放そうとしない。
花見の牛車(ぎっしゃ)が用意され、命ぜられて宗盛と同車とした熊野は、雲のような満開の花の中にあっても気持ちは浮立たない。加茂川の流れに沿って清水(きよみず)観音(かんのん)へ向うと川音が高く聞え、音羽山には桜が咲きこぼれている。東山の景色はのどかに、四条、五条の橋の上には老若男女が着飾って花見に出ている。大和大路に出て、六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の地蔵堂で熊野は病母を祈って拝む。愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)を過ぎ、六道(ろくどう)の辻に出ると、火葬場の鳥部山が見える・・・。漸(ようや)く清水寺に着くと、車馬の乗り入れは禁止だから車をすてて、ここでも熊野は一心に祈る。
酒宴となり、せかれて呼び出された熊野は宗盛のご前に出る。桜花がひらひらと散る有様は、蝶か、雪のように見える。熊野が舞っている(中ノ舞)と村雨が降ってきた。そこで詠んだ一首、「いかにせん都の春も惜しけれど馴れし東の花や散るらん」(イロエ)によって、しかし心をうたれた宗盛は、漸く熊野の帰郷を許したのである。

「頼 政」 よりまさ

老武者をシテとした修羅物といえば、『実盛』とこの『頼政』ですが、しかしいずれも「老い」をテーマに扱いながら、まったく対称的な作品といえます。敵に老人であることを悟られまいと、白髪を染め、緋の直垂を着て出陣したという『実盛』が「老い」をくっきりと浮かび上がらせるのに対して、『頼政』は不思議と「老い」をあまり感じさせません。『実盛』に用いる面には髭があり、髪も白垂で、まさに老武者の風情であるのに対して、この曲の専用面である「頼政」には髭はなく、どちらかといえば壮年を感じさせます。目に入れられた金彩は、頭巾によって隠れてしまう目元を強調するためであったのかもしれませんが、時代をしっかりと見据えて世の中を動かしてきた人物としての強さを放っています。老いを感じさせず、それでいて年齢を経てきた者だからこその人生の厚みや重さというものを表現しなくてはなりません。単なる老武者であってはならないのです。
 修羅能の多くは、戦に散った人間のあわれを思わせますが、この曲は「武士の生き様」を描いている点で、他の修羅物とは一線を画する能といえます。

「弱法師」 よろぼおし

河内高安の左衛門尉通俊(さえもんのじょおみちとし)(ワキ)は、以前一子俊徳丸を勘当したが、今は後悔して天王寺に七日間の施行(せぎょう)(ほどこし)をしている。参詣人(さんけいにん)の群がる中には弱法師とあだ名される乞食坊主も多い。丁度旧暦2月8日、彼岸の中日で空の晴れたのどかな日である。人群れの中から出てきた盲目の乞食少年(シテ)が施しを袖にうけながら「あゝいい香りだ、花が散るな」とつぶやいたのは、袖の中に花びらも散り入っているからだ。花びらもまた施行で、いや草も木もすべては皆仏の大慈悲の施しといえる。だからこそ聖徳太子が国政を改革し、万民に教えをたれるためにこの寺を建立したのだ。
 通俊がこの少年をよくみると、勘当した我が子であった。しかし外聞もあるから、夜を待って連れ帰ることとし、入日の時分だから日相観(じつそうかん)(日没を見て浄土を観想する行)をすすめた。面白いことをいって日相観をした少年は、興に乗って物狂おしくなり、以前見馴れたこの辺の景色を目に描いて有名な唐の証道歌(しょうどうか)をひいて舞う(イロエ)。日相観とは心眼でみるものだ。盲目といえどもこの辺りの風景は手に取るようで、「おお、見える見える」と少年は呼ぶ。
しかしやはり盲目だから群集に突き当って笑われもする。やがて夜になって、通俊は父であることを明かし、驚く俊徳丸を伴って帰る。めでたいこの再会は全く仏縁によるのだ。